【伝える力】

写真は11年前、トルコ人の一般家庭に泊まらせていただいて家庭料理を習った時の様子。
奥からのぞいている男の子とはスーパーマリオという共通言語を使って仲良くなりました。

ちなみに当時トルコで英語は通じませんでした。
もちろん日本語も通じませんでした。
スマホもありませんでした。
これが私の人生初の1人海外旅行でした。


そもそも初の1人海外でトルコ8日間(もちろん宿も航空券も個人手配)を選ぶこと自体
「だいぶチャレンジャーだな」
と思うわけですが、
そんな旅で長距離バスに乗って田舎町に行ってみたり、
知り合いの知り合いのご兄弟のトルコ人(もはや完全に知らない人)の家に泊まらせてもらうなんてウルトラC。
その前に泊まったホテルではフツーに停電もあって、街中で同じベンチに座ったおじいさんにトルコ語を教わったり、トルコ人のお兄さんにタジキスタン人だと思われてナンパされたり、毎日が
「なにこれ、マジかいな!」
な日々でした。
しかし私が出会ったトルコ人の多くは利害関係もないのに手厚くもてなして下さり、言葉とか宗教とか人種とか関係ないんだ、偏見などに惑わされないように自分もそうありたいと心底思ったことを今でも覚えています。
同時に言葉が通じなくともコミュニケーションが取れることを実際に経験して、自分の語学が拙くとも、臆することなんて何もないんだと思うようになりました。


その数年後にカナダ2ヶ月英語のみ生活を経て(最初の1週間はしんどくて、ホームステイ先の家のNetflixで唯一放送してた日本語の番組テラスハウスを見て気持ちを落ち着けていました)、当時に比べたら私の英会話はまだマシなレベルになりました。


そこで最近思うこと。
言葉で伝えられることは、ごく一部の情報のみなんだ。
そんなことを感じています。
母国語が日本語同士でも、言葉遣い一つで伝わる深度は違う。
それまでの関係性やお互いのバックグラウンドによっても捉え方は違う。
真意とは違うことが伝わってしまうこともある。
お店のお客さんと私は年齢や性別はもちろんバックグラウンドも違うわけで、きてくださる皆さんに心地よく過ごしてもらえるような言葉遣いや間の取り方を模索して毎度必死です。
実を言うとかなり集中しているので、お店を開けた日は結構げっそり疲れるほど。
初めて接客業のバイトをした時から20年以上経ちますが、それでも頭がうまく回ってない時は失敗することもあるし、言語ができてもコミュニケーションって難しいなと。

一方で
拙い言葉だと想いを伝えられない
これもことあるたびに感じています。
例えば私の拙い英語でも、相手に最低限の情報を伝えることはできます。
お菓子を通してコミュニケーションを円滑にすることもできます。
ただ、相手に寄り添うことや、私の姿勢や想いを伝えることは困難。
だから相手とある程度の信頼関係を築くことはできるけれど、もう一歩、懐に入っていくことはできません。
特に前回の台湾旅ではそれをしみじみと感じました。
台湾の友人たちとはありがたい事に信頼関係を築けています。
これは日本語を喋れる台湾人の友人がいるから、そしてその人たちの人柄のおかげで、私も信頼してもらえているということはあきらか。
懐の深い台湾人の国民性も起因していると思います。
ただ、台湾の友人への感謝の気持ちや寄り添いたいという私の気持ちは、やっぱり伝えきれていないという不甲斐なさを感じています。
私が日本語でもストレートな物言いをする理由は、相手に気持ちを伝えきれていないとわかっているからなのでしょう。



また先日、台湾から来た初対面の女性の通訳役として半日一緒に過ごしたのですが、終わってから渉に
「あなたがいなかったら、彼女は全然楽しめなかったと思うよ。」
と言われました。役に立てたことを嬉しく思うのと同時に、
「もっと彼女の好みや興味のあることを聞き出せたら、もっと楽しんでもらえるような会話ができただろう。」
という悔しさもありました。


つまり、語学ができてもできなくても誰かに気持ちを伝えることは難しい。
伝える力をつけるために、
英語や中国語の勉強の必要性を感じつつ、
日本語の表現の幅も広げたいし、
万国共通の「美味しいお菓子」もつくりたいし、
同時に人間力をつけることにも力を注ぎたいと改めて思うわけです。
一生終わらない修行ですな。