【個という感覚】

ド真面目で、とっつきにくい内容かと思うのですが、
いい機会なのでちょっと真面目に書いてみようと思います。

厚木で行われた映画鑑賞に伺ってきました。
「WE ARE WHAT WE EAT」
すごく端的にいうと
「食べることは生きること。食べ物がどうやって作られて、どうやって消費者の手に渡っているかを知り、生産性合理性を追求した資本主義社会の中で、あらゆるものの共生を目指して食の選択をすることの大切さを伝えた映画」
です。
この鑑賞会は
「地元産オーガニック野菜の給食を子供達に」
と考えているみなさんが市の後援を受けて開催したものでした。
個人的には異論なし、反対する理由もなし。


映画の序盤、まだ軌道に乗っていないであろうオーガニック農家さんが優しい言葉をかけられて思わず涙した場面、私も泣いたがな!
私も世間の王道とは違う道をいく身なので、いくら自分や周りを信じていても辛いときはあるよね、こんな言葉かけられちゃったら泣いちゃうよねと。
映画を見て、ものすごいいろんな気持ちが入り乱れたので、隠さず書き残したいと思います。
まとまりのない、超長文になっているので、
ご興味のない方はすっ飛ばしてくださいませ。

まず一つ、シンプルに
地元産の新鮮な食材がたくさんあるのに、
わざわざ遠くから運んだ食材を食べる必要ってあるんだろうか、
とくに厚木には農業、畜産業があるので、子供たちが実際にその食材がどういった過程を経て自分の口に入るのかを知る機会を作ることは大切なことなんじゃないか、と個人的には思っています。

もちろん、大量に安定的に食材を供給してくれる業者さんの利便性が高いのは百も承知です。
私も材料を仕入れて加工する立場なので、気持ちはわかるし、利用している場面も多々あります。
ただ、できる範囲で地元のものを使うことはできるよなぁと。
私が厚木や国分寺のお野菜や果物を使うのはそんな理由です。
できる範囲で、できることをやる。
ちなみに厚木産小麦を使いたくて問い合わせをしたのですが、取りまとめているところが外注しているから厚木産の小麦を使いたい場合は小売用の500gパックを買いに行って使うしかないという現実に打ちのめされた経験あり。
かと言って、個人で小麦を作っている方から購入して使うとなると、商業施設などで販売する時にチェックが入ってしまうこともあり現実的ではない。
みなさんもニュースで見かけると思いますが、食関連のいろんな事件が起きて、基準が厳しくなっている昨今。
厳しくなる事で違法に営業している製造者が取締られたり、安全を得られる側面もあるけど、そうでない側面もあるよね、難しいですな。

2つ目、
「オーガニック」
の規定は畜産、農産物でそれぞれあって、認定を受けてはじめて名乗れる仕組みです。
私も東京にいた頃、そして厚木に来て今年から小さな畑を始めましたが、
化成肥料を使うのと使わないのとでは収穫量に大きな差がある。
だからオーガニックの農産物の値段が高くなってしまうのは仕方ないと思います。
ただ

「化成肥料を使う」ことや「殺虫剤を撒くこと」
→土の中にいるいろんな菌を排除して作物を育てる
→自然と共生することと相反する行為では?


というロジックを私含め全ての人が理解して、共感して、実際にそれに従って行動できるかというと難しい。
だって、手持ちのお金がちょっと寂しい時にピーマンが2種並んでて、片方が1.5倍の値段してたら、やっぱり安い方を手に取りたくなるのが人間だもの。

一方、人間の立場からしたら、従来の農薬を使ったお野菜に助けられている場面がたくさんあることも忘れてはならないとも思います。
安定して、安価なお野菜がスーパーマーケットで手に入ることは、いろんな家庭環境の人の食卓を支えている、それは間違いない。
ただ自然農法やオーガニックの話をするとき、
「自然農法やオーガニックを主張する事 = そうでない農家さんを攻撃する事」
になってしまっている場面を見ることも多くて、個人的にはそこには同調できません。
(日本では意見を言うことが相手を攻撃していることとイコールに捉えがちなせいもあるかな。)
今回の鑑賞会を主催したみなさんは私と同じ考えで、攻撃や否定と捉えられることを危惧しているとおっしゃっていました。
理想は掲げつつも現状を理解して、お互いを認め合って、共存できる形を模索していく必要があると思う。

3つ目、私は地方催事に参加するときに
「わざわざ宅配便屋さんに運んでもらって(排気ガス撒き散らして)、お菓子を売ること」
について疑問を感じていないわけではありません。
人間に対してはいいことだけど、自然環境に対してはよくない。
催事だけじゃなくて、材料の仕入れ、百貨店出店などなど、ここはずっと矛盾を感じながら葛藤していくところだと思います。

4つ目、私は東京の世田谷区で生まれ育ちましたが、
小学校では畑をやっていたし、
商店街のお豆腐屋さん、八百屋さん、和菓子屋さんなどで買い物をするようなライフスタイルでした。
そして24歳から海外へ行く楽しみを知り、
30歳から海外一人旅が好きになり、
旅行先では必ずファーマーズマーケットに行くようになりました。(できる限り毎朝どこかのマーケットにいくほど好き)
30代前半で東京で土地を借りて小さな畑を楽しむようになり、
今年からは厚木で畑を細々と再開しました。
お店を構えている厚木、国分寺には産直のお野菜が道端で売られていて、
渉の両親は厚木で自分たちが食べる分を作る小さな畑、そして田んぼをやっています。
こんな背景があるから、私は食を巡る背景についての興味は強く、考える機会も多いほうのようです。
だから大量に生産しないと成り立たないという農家さんの苦悩や「タイパ最優先」な暮らし方について矛盾や疑問、いろんな感情が湧いてきますが、
もしかしてこれは珍しい方なのかもと気付きました。
映画鑑賞会の終わりに参加していた方の意見交換の場があったのですが、
そこでの感想を聞いて、そんなことを思ったのでした。
たまたま興味を持つ環境にいなかったら、疑問も感じないし、それで人生は進んでいくんだなと。
どちらが幸せかはわからないけれど、気づいてしまったからには完全無視はできない。

そして最後に。
つくりてが卵乳製品不使用の植物素材のお菓子である理由は
「お菓子はコミュニケーションツール。海外一人旅が好きで現地の家庭に入り込む機会も多くて、みんなで食べられるお菓子を作りたいと思ったから。」
と答えることが多いです。
もちろん理由の一つであり、きっかけではありますが、
そこには他にもたくさんの理由があります。
つくりてとしては、気持ちが伝えるためのツールとして、できるだけみんなで食べられるお菓子を提供したい、それが第一。
加えて環境保全、動植物との共生、そんなことを考えています。
これをドドンと掲げると、ちょっと宗教じみて見えたり、とっつきにくい存在になってしまうのもわかるので、サブストーリーとしてかかげています。
これは同じような植物由来の素材だけを使った食を提供するお店あるあるネタ。

食べたら美味しくて、あとで
「へー、これ乳製品も卵もなしなんだ!」
と気付いてくれるくらいがちょうどいいと思ってます。

日々生活をしていると、「自分」や「自分の家族」で生活しているような感覚になってしまいます。
自分のお店の売り上げとか、
自分の家族の家計とか、
自分の家族の健康とか、
お子さんがいらっしゃる家庭は自分の子供とか、
なんとなく「個」という感覚でものをみて気持ちが揺らいでしまう。
でももう少し顔を上げて、地域や、国や、もっと広い視点でモノをみて暮らしていけたら、
攻撃や否定じゃなくて、お互いが認め合える世の中になるんじゃないか、
一人一人がこころ豊かになるんじゃないか、そう思っています。