【「嫌い」と「苦手」は別物 】

写真は1年ほど前の国分寺店。
まだ扉が木製だった頃。
少しづつだけど、前に進んでいるのかなと思うと嬉しいです。
皆さんに感謝。

今日は先日、母親に言われたことについて。
「あなたは相手に対する”つまらない”とか”嫌い”がわかりにくいね。」
と。
例えば母は好き嫌いがハッキリしている人なので、相手の話が彼女の興味の範囲外だとわかりやすく大人しくなります。
私の場合は、それがわかりづらいらしい。



そこで考えてみたら、
「私、嫌いな人っていないかも」
ということに気づきました。

苦手な人はいます。
正確には
「相手がこの会話で何を求めているのか、どう反応していいのか正解が見えづらい」
と思う人はいます。
例えば旦那さんや彼氏の愚痴を延々と話す人がいたとして、
素の私なら
「旦那さん本人は悪気なくて気づいてないだけかもしれないから、まずはそのままを言わないと始まらないんじゃない?」
と解決法についての返答をするでしょう。
しかし相手は話を聞いてもらって
「大変だねぇ。(解決したいわけじゃない)」
の一言が欲しいのかなと思って言ってみたら正解だったらしく、少し落ち着いたようでよかった、でも私の心はもやもやしたり。
相手を変えようとするんじゃなくて自分が変われば状況も変わるのになぁ、プラスの方向に向かうことを考えたらいいのになぁ、
また次回も同じことを繰り返すのかなぁ、時間もエネルギーももったいないなぁと。
(もちろん誰でも愚痴を言いたくなる時はあるけれど、まいど愚痴がばかりだと誰にとってもいいことないよなぁと。)

これが相性ってやつなんでしょうね。


しかし嫌いというわけではなくて、私の中では
「こういう人もいるんだな」
というカテゴリーに分類されます。
着眼点を変えたらその素晴らしいところは必ずあるし、一過性の感情に流されることも人間あるから。

「嫌い」と「苦手」は別物。

これを混同すると、排他的になったり、自分と違う価値観を否定することに繋がる気がするので要注意だなと。

合わないからって嫌だと突っぱねてしまったら、その人の良さも見つけられなくなっちゃうしね。
もちろん愚痴を言っていると本人の精神衛生上もいいことはないので、
誰かのせいにせず自分で自分の機嫌をとったほうがいいよねとは思いますが、
嫌いという感覚はありません。
良くも悪くもフラット。

ちなみに、私は興味があることや人にはズイズイ近づいていくので、好きの感情はわかりやすいはず。
その傾向は台湾で活動するようになってから強くなっていきました。
台湾人が私に興味を持って接してくれてとても嬉しくて、
自分のプラスの感情は周りに伝わってもマイナスの影響を及ぼすことはないから、
ならば積極的に伝えていこうと思った、という流れです(もはや今は無意識ですが)
「あなたのそういうところを尊敬しています」
「私はあなたに全幅の信頼を置いています」
「いいじゃーん、かっこいいじゃーん」
「私にないものを持っているなぁ」
などなど、思っている事はそのまま話します。

最後、少し話がずれましたが、
若い頃からクールだと言われていたのは、こういう思考回路だからかなと思う今日この頃。
嫌いとか憎しみの感情を抱いていると、自分自身が荒んでくるので、
誰かに何かを期待するのではなく、自分で自分の機嫌をとって過ごしたいね。